ルネマグリットの生い立ち(出身)は?死因や経歴(本名母親)を紹介!

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美術界の巨匠・イメージの魔術師とも呼ばれたルネ・マグリットを御存じでしょうか?

代表作「人の子」や「恋人たち」、「イメージの裏切り」などは絵画展や美術の教科書で目にしたことがあるかもしれません・

現代美術の発展に貢献した画家ルネ・マグリットの素顔や生涯に迫りたいと思います。

ルネ・マグリットのプロフィールを紹介!

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  • 名前:ルネ・マグリット
  • 本名:ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット (René François Ghislain Magritte)
  • 生年月日:1967年11月21日
  • 年齢:68歳(享年)
  • 出身:ベルギー レシーヌ
  • 死没地:ベルギー ブリュッセル
  • 国籍:ベルギー
  • 職業:画家
  • 表現スタイル:シュルレアリスム
  • 代表作:「人の子」、「恋人たち」

ルネマグリットはベルギー西部レシーヌ出身です。

ベルギー西部エノー州のレシーヌで、仕立屋商人レオポール・マグリットと、結婚前はお針子をしていた母のレジーナ・ベルタンシャンのあいだに長男として生まれました。

子供の頃は両親だけでなく、町の大人も手を焼く悪童で兄弟(ルネ・マグリットには下の弟が二人いま

す)でいたずらばかりで困らせていました。

そんな彼が親の意向で絵画教室に行くことに。。油彩画や素描を習い始めました。

これが画家ルネ・マグリットの原点になります。

1967年の8月15日、ルネ・マグリットは癌で原因で逝去しています。

「シュール」=「シュルレアリスム」

シュールの正式名称は「シュルレアリスム」だ。シュルは超。レアリスムは現実主義。

日本語に訳すと「超現実主義」となります。

 

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ルネ・マグリットを変えたきっかけ!

1912年(ルネ・マグリット14歳)の時に母親がサンブル川で入水自殺を図ります。

母親は精神的に不安的で家族のいない隙をみては自殺未遂を繰り返していました。

父のレオポールは彼女が自殺しないように寝室にカギをかけて幽閉することも珍しくなかったそうです。

しかし、ある日母親は幽閉部屋から脱走してしまいます。

数日たって警察から自宅から数キロ離れた河川敷で遺体になっていたことが知らされます。

遺体の検分にルネ・マグリットも立ち会っておりドレスが母親の顔を覆いかぶすように映った光景をみて強いショックを受けます。

このトラウマは彼の作品に大きな影響を残し、ルネ・マグリットの作品では人物の顔が隠されているものが多いです。

 

その後、マグリット兄弟は下女と家庭教師に預けられることになります。

1913年、マグリットの一家はシャルルロワへ移り、マグリットは高校へ入学。またこの頃に定期市の回転木馬で2歳年下で後に結婚するジョルジェット・ベルジェと出会います。

ルネ・マグリットの経歴を紹介!

第一次大戦後は、ベルギーのダダ運動に参加しています。

詩人でありコラージュ作家だったE.L.Tメセンスとともに、雑誌『食道(Esophage)』や『マリー(Marie)』を発刊。

彼ら以外には、アルプ、ピカビア、シュヴィッタース、ツァラ、マン・レイらも参加。これらは前衛色の強い雑誌だった。

 

1920年、ブリュッセルの植物園において偶然ジョルジェットと再会。1922年に結婚する。

マグリットとジョルジェット

写真左がジョルジェット/右がマグリット

 

1920年12月から1921年9月までマグリットは、レオポルドスブルグ近くのビバリーのフランドル街に歩兵として兵役につく。

兵役の間は指揮官の肖像画を制作していました。

兵役を終えた後、1922年から23年にかけてマグリットは壁紙工場で図案工として働きますがしばらくして工場をやめて、1926年までポスターや広告デザイナーとして働く。

この時期の作品は、ロベルト・ドローネーやフェルナン・レジェなどピュリスムやキュビスムに近い作風だった。

 

この頃、詩人のマルセル・ルコントがマグリットに見せたジョルジョ・デ・キリコの《愛の歌》の複製に大きな影響を受けて、芸術家への転向を決意しました。

ルネマグリットの代表作を紹介!

924年から1929年の間がシュルレアリスム運動で最も盛り上がった時期であり、このころのマグリットの初期シュルレアリスム作品は、幻想的というよりも不気味なものが多い。マグリットの代表作の《恋人たち》はヴェールを被って接吻している絵画であるが、このヴェールは、幼くして母が謎の入水自殺をした事件がモチーフとなっているといわれている。

《恋人たち》(1928年)
《恋人たち》(1928年)

哲学と美術の融合


1929年には美術史上よりも哲学史上において有名な作品《イメージの裏切り》を制作。絵にはパイプが描かれているが、パイプの下に「これはパイプではない」と記載されている。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということ。だから「これはパイプではない」と記述しているという。

 

この作品はよく、哲学者ミシェル・フーコーが1966年に発表した「言葉と物」を説明する際に利用される。1973年にフーコーは『これはパイプではない』という著書でマグリット作品を主題的に論じている。

《イメージの裏切り》(1929年)
《イメージの裏切り》(1929年)

ブリュッセルへ


1930年にブルトンに離反してブリュッセルへ戻るが、経済恐慌の影響で画廊との契約が終了し、生活のために弟とともに広告など商業デザインの仕事も再開。

 

1930年代は、《共同発明》、《陵辱》のようなヌード画が多く見られるものの、上半身が魚なのに下半身が人間であったり、女性の顔が女性の裸体の前面になっているなど、どこかヌード画に対して冷たい態度を示しているところがある。

 

1937年に、数週間、ロンドンで過ごす。初期はイギリス人のシュルレアリストであるエドワード・ジェイムズがマグリットの大パトロンとなり、彼のために何点かの作品を制作し、ロンドン画廊で講演をする。

 

ジェイムズはロンドンでのマグリットの家や画材を無料で貸し出した。またジェームズはマグリットの作品《Le Principe du Plaisir》 や《複製禁止》のモデルとしてもよく知られている。

《共同発明》(1934年)
《共同発明》(1934年)

ルノワールの時代


第二次世界大戦でベルギーがドイツに占領されている間、マグリットはブリュッセルに残り、ブルトンをはじめパリのシュルレアリスムグループと決別する。1943年から44年にかけてマグリットの絵画は、カラフルで簡潔になっていきました。

 

印象派、なかでもルノワールに影響を受けた作品を制作している時期であり、一般的に「ルノワールの時代」とよばれている。これはドイツ占領下のベルギーでの生活におけるマグリットの疎外感や自暴自棄を表現したものだという。

 

1946年、ここからマグリット作品はかなり変化する。

戦後マグリットは初期の陰鬱とした作風を放棄し、ほかの何人かのベルギーの美術家たちと『陽光に満ちたシュルレアリスム』宣言を発表。

マグリットはブルトンの思想に反対して、楽観的でポップなシュルレアリスム様式を追求することになります。

 

1947年から48年はマグリットにおいて「牡牛の時代」と呼ばれる時期で、大きな筆致による鈍重な手法で作品を描く。しかし「牡牛の時代」は大変不評だったのですぐにやめる。

 

またこの時代、マグリットはピカソやブラックやキリコの贋作を制作して生活の糧を得ていたという。のちにマグリットの贋作制作は紙幣偽造印刷にまで拡大。これら贋作制作は、弟のポール・マグリットや仲間のシュルレアリストであるマルセル・マリエンたちと共同で行われていたとされる。

 

1948年後半には、マグリットは元の具象的なシュルレアリスム絵画に戻る。

《良い前兆》(1944年)
《良い前兆》(1944年)

ポップの時代


マグリットの晩年期は、《大家族》光の帝国》を始め、現在われわれがよく目にするポップなシュルレアリスム作品を多数制作しています。

 

アメリカにおいてはニューヨークで1936年に個展を開催。1965年に近代美術館でアメリカで2度目の個展が開催。マグリットの作品は、1960年代に大衆から関心を集め、その後のポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートに影響を与えた。1992年にメトロポリタン美術館で回顧展が行われています。

《大家族》(1963年)
《大家族》(1963年)

まとめ

現代美術の巨匠ルネ・マグリットについての紹介記事でした。

なんでも鑑定団に大阪万博繊維館に展示されていた「四谷シモン作」が登場し鑑定総額500万円になったことも。

これから時間がたってくると更に作品の価格が上がるかもしれません。

私自身は美術作品に対しての造詣がなく、あまり善し悪しが分からないですが、目の前でみるとすごい迫力があるのでしょうね。

また、映画「エクソシスト」もルネ・マグリットの影響を受けているそうです。

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